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構造主義(数学・哲学)

目次

寝ながら学べる構造主義の感想と、その動機に関する前置き。

動機

最近、Homotopy Type Theory (HoTT) なるものの存在を知り、その勉強のために依存型理論の勉強から始めたのだが、そのうちに「依存積型=全称量化、依存組型=存在量化」の対応から Curry-Howard 対応、その中でも特に直観主義論理の方に関心が引き寄せられ、HoTT と直観主義論理の両方の根底にある、「構成要素ではなく構造を数学的基盤としよう」という考えに(ようやく)至ることができた。つまり、HoTT では「not 要素 but 空間」であり、直観主義論理では「not 命題 but 証明」である。

しかし、構造を重んじる風潮はなにも直観主義論理だけのものではないはずだと思っていて、例えば Wikipedia:構造主義 には Bourbaki が「抽象的 “構造” を基盤とした数学」を作り上げたと書いてあるが、Bourbaki は特に直観主義論理に基づいているわけではない(はずだと私は勝手に思っているが勉強しないと分からない)。言うならば「not 形式主義 but “構造主義”」だろうか(Bourbaki も公理的集合論から出発してはいるが)。というかなんなら HoTT も別に直観主義を土台にしているわけではないはずだ(逆は時代的におかしい)。

となるとその根底には一体何があるのか。「構造とその準同型が大事」というのはふんわりと納得がいくようにはなったが、(主に数学基礎論的な観点から)これを明快に説明することはできないのか。結局、HoTT が数学基礎論を置き換えてしまってくれればそこから自ずと明らかになる気が今のところはしているので勉強を続けるしかないのだけれど、ではこの “構造主義” 以上にふさわしい名前が無さそうな数学的思想と、その後1960年代に始まったらしい「構造主義」思想とがどのようにリンクしているのか、主張するものは同じなのか、前者が後者に(もしくは双方向に)影響を与えたのだろうか、等々を知りたくて、そちらについても勉強することにした、というのがそもそもの始まりだ。Yak shaving もいいところである。

感想

まず、まえがきにある

良い入門書は、まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか」を問います。

という一文は良い文だなあと思った。いつか長い文章を書くときに使いたい。

最初の方で「構造主義とは何か」に対する説明が一言で示される。要約すると、

「個人の思想は所属する集団の文化に依存する。したがってその思想には偏りがある。しかしそれを通常意識することはない。」

だろうか。しかし、この定義からは、思想としての構造主義と数学における “構造主義” はあまり結びつかなさそうだなあ、というのが最初の感想だった。というかこれだけでは「構造」とは何のことなのかがよく分からない。均質な文化を持つ集団の内部の構造なのか、それともそれを単位とするより大きな集団間構造なのか。あとは構造主義が作られたのはグローバル化によるところが大きそうだなあと思った。これは確実にはるか昔に誰かが正しく議論しているだろうが。

本書では基本的に構造主義に関わる有名な思想家たちの言説を平易に解説することで構造主義を説明しようとしている。なので以下は、私が解釈した(本書で述べられている)彼らの主張一言ずつと、それに対する感想を書く。

マルクス

「人は何者であるかではなく、何事を為すかによって特徴付けられる」

これは上にあった構造主義の定義よりもずっと「構造」の雰囲気が出ていると思う。つまり、個を知るために個を見るのは不十分で、それが属する構造(に個が与える影響)を見なければならないということだと私は解釈した。個を II、社会を SS とすると、マルクスの主張では II を見るのではなく ISI\leftrightarrows S を、それも特に II\rightarrow を見ろ、ということだと私は受け取った。しかもそれが十分に無くては人間としてダメだと言う(あくまでこの本だけを読んだ個人的な解釈による)。しかし、これもやはり圏論が語るような、(準)同型によってつながる構造というストーリーとは違うような感じがする。それでも年代と流行の度合いを考えると、数学者に少なからず影響を与えていてもおかしくはなさそうではある。

フロイト

「人は無意識的に、意識したくないことを無意識化する」

これは構造主義において、構造よりもバイアスの方面に影響を与えたのだと思う。いずれにしても、自分が無意識的に意識化を避けていることを知ることすらできない、というのは恐ろしいことだ。

ニーチェ

「相互模倣に幸福を見出すな、それは道徳を均質化させ、主体的判断を不可能にする」

こちらもバイアス方面の意味合いが強いと感じた。このように述べるからには人間が相互模倣を良しとしてしまう傾向があるからなのだと思うが、それは一体何によるものなのだろうか。遺伝的なものか、社会的なものか(広義のエピジェネティクスと思えば社会も遺伝の一部ではあるが)。あとは幸福とはなんだろうという話だが、これは(少なくとも数学的な)構造主義とは関係なさそうなので深入りしないことにする。個人的には幸福こそ相対的な差異によって生じるもの(他人と比べて、昔の自分と比べて)だと思うのだが、そう感じるのは私が「畜群」ではないからなのだろうか(?)。

ソシュール

「すでに区別された物に対して名前が付くのではなく、名前を付けた範囲が観念のうちに物として存在するようになる」

これはとても当然のように感じてしまうが、それはやはり私がすでに構造主義の考えにどっぷりと浸かってしまっているからなのだろうか。自転車と同じか。この話の流れとして同じ概念を指す異なる言語の単語や、片方の言語に無い概念を指す言葉などの例が挙げられている。言語はそれを構成する単語間の構造で規定されるというのはこれまでの話の中で「構造」が最も明確に現れている例だと思う(上の3人は構造主義ではなく構造主義に影響を与えた人々らしいので当然といえば当然か)。これならば言語間の対応関係は「準同型」で言い表すことができそうだ。今であれば word2vec のようなもので言語(を構成する単語間)の構造を表現して、それを(高次元空間での)回転によって別の言語の構造に一致させる、みたいなことは既にやられてそうだなとふと思った。

「人は言葉を語ってから自分が何を考えていたかを知る。」

これは最近の生物学における意識の問題と共有するところが大きいように思う。というよりもソシュールの影響を受けているのではないだろうか。となると気になるのは、難しいながらも可能とされている、他人の言葉をそのまま借りない新規な・創造的な表現というのは一体どうやって生まれてくるのだろうか。あと、昔知り合いが、難しいことを考えている際によく分からなくなる状態を「頭にもやがかかる」と表現していたのは、まさしくこの「(理解していないために)他人の言葉を借りて断言することができない状態」なのだろうかと思った。

フーコー

「近代において、権力=知は人間の標準化を目指してきた」

科学では予測可能性が重要視される。これはすなわち自然を支配することであり、自然に対して権力を持つことである(このような文言は前にどこかで見たような気がするがどこだったか思い出せない)。フーコーによると、知に基づいた分類・標準化行為そのものが権力的であるということであって、いわゆる “権力” とは同一視してはいけない。権力による標準化に対する批判はニーチェの均質化批判の流れを組むものらしいが、その批判は知的活動によって行われるので、それ自体が権力的であるというループを抱えているらしい。良い権力と悪い権力がある、などと述べるのは構造主義に怒られるだろうか。

バルト

「言葉には、全体に共有される規則と、個人の使用傾向のほかに、社会的な傾向がある」

流行語みたいなものだろうか。社会的に広まった語法のうち、標準語として受け入れられてしまったものの中に、その社会が無意識的に共有しているイデオロギーが存在するとのこと。また、作品を語るときに「作者が表現しようとしたもの」などは意味がなく、「読者が受け取ったもの」が大事と本書には書いてあると受け取ったが、それは少々いかがなものかと思った。作者のバックグラウンドをもって作品を説明しようなどとは思わないが、その作品を作り上げた文脈というのはあるはずで(作者が無いと主張したら私はそれこそ無意識による抑圧だと言いたい)、それを作者なりが語ることに意味がないとは思えない。それを踏まえた上で「でもこういう解釈もできるよね」という読者からの反応があって、その両方が同時に存在することに何ら問題は無いはずである(批評の正解不正解などを語り出すからいけないと私は考える; それこそ非構造主義的ではないのか)。まあ、作品というのは作者によってではなく読者によって存在するというのは理解できるし、それが構造主義的だというのもよく分かる。

あとは、オープンソースを賞賛しているが、(最近流行りの(?)「やりがい搾取」ではないが)著作権や特許が消え去れば良いのだろうか。マルクスの主張で言えばそれは対価の無い社会への生産活動となり、それはまさしく理想の共産主義、ということだろうか。

ストロース

「人は自分、または自分が属している集団の思考の客観的指向を過大評価する」

これはよく言われる、「理系、特に数学や物理の人達は他分野を見下す傾向にある」につながるものがあるかなと思ったり思わなかったりする(違うか)。

「人間社会は同じ状態であり続けられない。贈与が人間性の起源である」

このあたりは生物学と文化人類学の境界という感じがして、あまり深く考えるのは避けたいなという気持ち。

ラカン

「記憶は過去の真実ではなく、現在の思想によるバイアスがかかっている」

これも構造主義に入ってくるのかという感じ。

所感

結局、「絶対的な立場というものは存在せず、人が考えることは無意識的にその人の立場の影響を受けている」という思想を構造主義と呼ぶ方がふさわしいように感じた。「構造」がどの部分を指しているのかはまだよく分からないので、もう少し勉強する。